暑さを避けて日が傾いた頃に庭仕事を始めるので蚊に食われまくりのしんこです。
今回は趣向を変えまして自分が鉄道好きになった原点のお話など。
しんこの鉄ちゃん史① 幼少の頃
父親は国鉄職員
過去のくるま旅の投稿に何度か鉄分の濃いものがありますが,物心がついたころから何となく続く”鉄”の歴史を振り返ってみたいと思います。
自分の父親は北海道で国鉄職員をしていましたので住居は鉄道官舎。まあ平たく言えば社宅ですな。
立地としてはほとんどの場合,駅や線路脇にあるので気がついたら汽車がいつも近くにあるという環境でした。
富内線・振内
今も残る駅と線路
時代は1960年代中頃(昭和40年代の初め)で,その当時住んでいたのは富内線の振内というところ。
振内の前にはとなりの幌毛志というところにいたらしいのですが,記憶は全くありません。
富内線は日高本線の鵡川駅から日高町駅に至る82.5kmの路線で,全通からわずか22年後の1986年11月1日に廃止されました。
現在の振内駅跡周辺。駅舎が振内鉄道記念館として残されていて,線路とホームも存在しています。
鉄道官舎があったのは駅の西側,振内鉄道記念公園の原っぱの辺り。ここに4歳まで住んでいました。
振内鉄道記念館内の「富内線 振内駅 構内模型」展示に鉄道官舎が再現されています。青や緑屋根のコンクリートブロック造り2階建て長屋が6棟ほどありました。
4棟が剥がれて落下しているのが悲しいぜ。
航空写真で街を見ると,子供の頃の記憶とはだいぶ違っていて,その衰退ぶりに驚くばかりです。
苫小牧へ汽車で行くうち鉄に目覚める
この頃は自家用車なんてありませんから,移動手段は汽車のみ。苫小牧に祖父がいましたので,そこへ行くため割と頻繁に汽車に乗る機会がありましたね。
旅客列車として走っていたのは普通列車のみで,朱色とクリームに塗分けされた気動車が1両編成で運行されていました。
車両はキハ21。
本州などで使用されていたキハ20を寒地向けにした形式ですが,デッキがなく扉を開けると寒風が車内に吹き込むので,酷寒地向けのキハ22が登場してからは札幌近郊や道南など,乗降客が多いか比較的寒さが厳しくないところで運用されていたようです。
振内駅を出発した苫小牧行は幌毛志駅を過ぎると沙流川と別れて北に進み,いくつかのトンネルで山を越え富内駅に到着。富内駅からは鵡川に沿って進みます。
この先はしばらく鵡川沿いの崖っぷちを走るのでスピードは全然出ません。
やっと平地に出ると鵡川駅に到着。ここで様似方面からくる日高本線の普通列車と併結します。かなり長時間の待ち合わせで,日高本線の列車が到着してから一旦苫小牧方向へ移動して転線,バックして先頭に連結という手順だったと思います。
貫通扉を開いたまま徐行して接近し,ガチャンと連結。ブレーキホースやジャンパー線,貫通幌をつなぐ作業に子供ながら萌え。
鵡川駅には弁当の立ち売りがいたので,ここで助六寿司と雪印のアイスクリームを買ってもらうのがお約束でした。
鵡川駅からは直線なので俄然スピードアップ。ジョイント音も軽やかに並行する国道235号を走る自動車をバンバン追い越していきます。たぶん最高速度の95km/hくらいで爆走していたはず。気分爽快!
勇払駅を出発してしばらくすると室蘭本線に寄り添います。室蘭本線の複線に日高本線の単線を加えた3線区間で苫小牧を目指します。
車窓の左側には貨物ヤードがあって,所有会社のマークも楽しいタンク車や石炭車がたくさん留置されていました。
こんなの子供が興奮しないわけがありませんよね。
苫小牧で蒸気機関車に粘着
祖父も元国鉄職員で苫小牧駅近くの室蘭本線沿線に住んでいました。
当時の苫小牧には機関区があり,まだ蒸気機関車がいました。白黒写真に父に手を引かれて沿線で蒸気機関車が入換しているのをじっと見つめる自分の姿が残っています。
自分は覚えていませんが,帰ると言わずにずっと蒸気機関車を見ていたという話をよく聞かされていたので,既に立派な鉄ちゃんですね。
それにしても線路近すぎ。
富内線・日高町
貨車をチャーターしての引っ越し
引越しのときは振内駅の側線に有蓋車(ワム)と無蓋車(トラ)が各1両留置されていて,それに家財道具や解体した物置などの資材を載せ,日高町駅へ引越荷物を移動した記憶があります。
今だったら絶対考えられませんね。
日高町駅は駅舎が解体され,線路も撤去されているので痕跡は全く残っていません。
鉄道官舎の近くに富内線の末端がありました。
また日高町駅からは帯広方面行の国鉄バスが連絡していて,青と白に塗分けられたお馴染みの塗装の他に,ベージュと深緑の旧塗装の車両も見た記憶があります。
タブレットキャッチャー
日高町駅は富内線の終点なので,折り返しの出発時間まではずっと気動車が停車しています。普段はもちろんホームで停車しているのですが,あるとき末端の車止め近くに停車していたことがありました。
車両は富内線では珍しかったキハ22。なんでそんなに鮮明に覚えているかというと,タブレットキャッチャーが付いていたからです。
キハ22は急行列車にも使用されることがあったので,駅を通過しながらタブレットを授受できるようにタブレットキャッチャーが装備されていました。
しかも乗務員用扉から車両前面までの寸法が短いので,タブレットキャッチャーの台座が角のように飛び出し,とても目立つ存在だったんです。
待機していた運転士に「それ何w?」と聞いてみました。たぶんきちんと説明してくれたと思うんですが,5歳児はタブレットなんて知りませんし,ちんぷんかんぷんのまま終わった記憶があります。
でもわずかなディテールの違いに気づいて興味をも持つなんて,我ながら恐ろしいガキんちょでしたね。
自家用車の登場
この年のトピックスとしてついに我が家にも自家用車がやってきました。
車種はいすゞベレット。グレードは今となっては全くわかりませんが,丸目4灯の4ドアセダンでした。
テールランプはウインカーも含めて赤1色でオレンジ色はなし。三角窓が付き,やや尻下がりのクラシカルなスタイルで,子供心にあんまり格好良くないなと思っていました。今だったら大歓迎なんですけど。
しかしその便利さは言うまでもなく,日高町駅から汽車に乗って苫小牧へ行った記憶がほとんどありません。
国鉄職員の家族がこのありさまですから,ローカル線のお客が減少するのは当然ですよね。
日高町での生活はわずか1年で,小学校への入学直前に長らく親しんだ富内線から離れることになるのでした。
つづく…のかな?