朝の気温が下がってランニングのスピードが上がってきたしんこです。
汗もやたらと出ないし楽だわあ。
こちらの続き。
しんこの鉄ちゃん史② 小学校低学年の頃
富内線・日高町から胆振線・喜茂別へ
小学校入学を控えた6歳の3月,富内線の日高町から胆振(いぶり)線の喜茂別(きもべつ)へ引越ししました。
胆振線は室蘭本線の伊達紋別駅と函館本線の倶知安駅を結ぶ83.0kmの路線でしたが,1986年11月1日に廃止されました。富内線が廃止されたのと全く同じ日です。
何か子供時代の思い出の地が全滅したような気分になりましたね。
線路から遠い喜茂別の鉄道官舎
喜茂別の鉄道官舎は線路沿いではなく,喜茂別駅から700mも離れていました。というより喜茂別駅が街外れにありました。
何でこんな不便な立地になったのかは謎。線路も街の西側をかすめるようにして南東方向へ抜けてしまっています。
通学路や遊び場の近くに線路がないので汽車に接する頻度は少なく,胆振線の列車を見たという記憶はほとんどありません。
汽車に乗る機会も激減
祖父は苫小牧,親戚は札幌にいたので双方へ行く機会が多かったのですが,どちらへ行くにも胆振線を利用するとえらく遠回りになるので不便この上なし。
当然のように移動は自家用車を使用しました。
苫小牧なら国道276号から国道453号美笛峠,支笏湖畔を通れば苫小牧までほぼ一直線ですし,札幌へは国道230号中山峠を越えればもう定山渓という近さです。
列車に乗った記憶といえば,鉄道官舎の婦人会旅行にくっついて北湯沢温泉へ行くため,喜茂別駅から北湯沢駅まで普通列車で往復したくらいですね。
急行いぶり
喜茂別に住んでいたときにその存在を認識していたのかは微妙なのですが,胆振線には急行いぶりという珍しい列車が運転されていました。
何が珍しいのかというと,この列車の始発駅は札幌駅で,行先も札幌駅だったんです。
意味がわからないですよね。
急行いぶりの経路は千歳線・室蘭本線・胆振線・函館本線となっていて,札幌を出発した列車は千歳線を苫小牧へ向かい,苫小牧からは室蘭本線を進んで伊達紋別に至ります。伊達紋別から胆振線に入り,倶知安からは函館本線を小樽経由で札幌へ戻ります。
札幌から苫小牧方面へ向かう時計回りと,小樽方面へ向かう反時計回りの列車が設定されていましたが,札幌駅を出発するの時点ではどちらも上り列車という不思議な列車で,ぐるっと1周するので循環急行と呼ばれていました。
車両は普通列車用のキハ22で1両編成。
急行列車としてはだいぶ格が低い感じで,千歳線と室蘭本線では急行ちとせに併結,函館本線では急行らいでんに併結されていました。
急行いぶりは胆振線が姿を消す6年前の1980年10月1日に廃止されています。
恐怖の札幌市営地下鉄南北線
札幌の親戚は札幌市営地下鉄南北線の霊園前駅(現南平岸駅)の近くに住んでいたので,市街中心部へ出るために利用することがありました。
札幌市営地下鉄は1971年に北24条駅と真駒内駅間の12.1kmが開業。自分が乗ったのは開業から2年後くらいの頃です。
札幌市の地下鉄は一般の鉄道とはかなり違っていて,ゴムタイヤで走行する案内軌条式だったり,窓が大きい鉄道車両離れしたデザイン,開業当初から自動放送,自動改札機を採用するなど,富内線や胆振線の気動車しか知らない自分からすると異次元の乗り物でした。
しかし自分にとってはこの”自動”が恐怖で,改札機はきっぷを表にして入れないとピンポンピンポンと警報がけたたましくなりますし,乗車時はまだ電車に乗ってもいないのに,自動の案内放送が「2番ホームから北24条行きが発車します。ご注意ください。」と言ったとたんにブザーがブー。
ドアはブザーに合わせて問答無用で閉じてしまうと信じてましたから,乗降時の緊張感&ストレスはかなりのもので,あまり好きな乗り物ではありませんでした。
ちなみに現在JR等で使用している自動改札機はきっぷを表や裏はもちろん,横,斜めに入れても通過できますが,自分はこのときの記憶がトラウマになっていて,きっぷを表にしないで入れるなんて恐ろしくてできません。
もっとも今はSuicaで”ピピッ”がほとんどですけどね。
2年で札幌市へ引越し
胆振線の喜茂別で暮らしていたのは2年間で,3年生に上がる前の春休みに札幌へ引越すことになりました。
つづく。